|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ラン : [らん] 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network) ・ 海峡 : [かいきょう] 【名詞】 1. channel ・ 海戦 : [かいせん] 【名詞】 1. naval battle ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight ・ 年 : [ねん, とし] 1. (n-adv,n) year 2. age
オトラント海峡海戦は、1917年5月15日にオーストリア=ハンガリー帝国海軍と、イギリス、フランス、イタリア海軍艦艇などとの間で戦われた海戦である。第一次世界大戦中にアドリア海で生起した海戦で最大のものである。 == 背景 == 第一次世界大戦が勃発すると、イタリアはドイツとオーストリアとの間で結ばれた同盟条約を1915年に破棄して両国に宣戦布告する。連合国側は、それ以前からフランス海軍などがアドリア海においてオーストリア=ハンガリー帝国海軍の港湾封鎖を試みていたが、同国海軍潜水艦の反撃を受けて封鎖は失敗し、参戦後のイタリアを含め連合国側の主力艦は1915年以降、アドリア海での行動を断念するに至った〔森野哲夫 「第一次大戦におけるオーストリア潜水艦」第1回〕〔森野哲夫 「第一次大戦におけるオーストリア潜水艦」第2回〕。それ以来、連合国側は同海域入口のオトラント海峡を封鎖する方針に転換し、同海峡に防潜網と機雷堰による封鎖線を構築の上、徴用漁船を改装したドリフター(特設掃海艇・駆潜艇)を配置して海峡の封鎖を行った。 この封鎖線は最大幅40マイルにもなり、設置された場所からオトラント堰と呼ばれた。封鎖線は機雷堰を伴っていたため船舶で強引に突破することはかなり危険であった。また、哨戒に当たるドリフターは多い時で100隻以上に上った。 開戦以来オーストリア=ハンガリー帝国海軍は現存艦隊主義を採り〔、無理な交戦を避けて艦隊の戦力の維持を図る一方、軽巡洋艦や駆逐艦・水雷艇による機動作戦を展開し、アドリア海に侵入する連合軍艦艇への攻撃をしばしば実施した。オトラント堰への攻撃も20回以上実施している。中でも、1917年5月から7月に掛けて行われた戦いが最も大きかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オトラント海峡海戦 (1917年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|